はじめに
誰も興味はないかもしれませんが、たまに聞かれるので、なぜ事務所名をFAR EAST [ファーイースト]にしたのかを書きたいと思います。
僕らの事務所名、株式会社FAR EAST [ファーイースト 英語表記:FAR EAST Co,.Ltd.]については、HPに次のように書いています。
『FAR EAST [ファーイースト]は、世界の’東の端’すなわち’日本’を意味します。 この小さな国である日本から、建築・デザインという行為を通して何かを世界に発信したい、という少し大きなメッセージを込めています。』
そう、その通りなのです。ヨーロッパが中心の世界地図では、日本は本当に東の端っこに小さく表記されています。そんな国から何かを発信したい、それは今までずっと思い続けていることです。
オフコース、小田和正とFAR EAST
この事務所名はパートナーの小澤が就職して2年目(だったと思う)、僕が大学院の時に新潟県の湯沢に知り合いの住宅兼店舗を初めて設計した時につけました。二人の名前を入れるのではなく、何かカッコいいカタカナ(英語の)事務所名がいいなと単純に思っていたのと、濁音が入っていない方がいいなと思っていました。それでつけたのですが、実はもうひとつ大きな理由があります。
小学校の高学年に、オフコースに出会いました。それまでいわゆる歌謡曲しか知らなかった僕は衝撃を受けました。都会的なアレンジと中性的な声。その声はまるでひとつの楽器のような・・・そんな印象でした。それがオフコース、小田和正でした。それからオフコースをひたすら聞く日々が始まりました。アルバム「three and two」「We are」「over」と続く絶頂期の5人のオフコースに心酔していきました。そうすると小田和正は何者かという疑問は当然で、彼の足跡にも興味が湧きました。雑誌や出版されている本をくまなく読んでいくと、彼は横浜の聖光学院中で鈴木康博と出会い、音楽を始め、その後東北大学工学部建築学科、早稲田大学大学院と進み、建築を専攻していたということを知りました。その頃から音楽と建築に興味を抱くようになりました。僕も中学・高校と部活をやりながら、学園祭ではバンドを組み、演奏していました。大学で建築を専攻したのも、小田和正の影響が大きかったのは否定できません。(もちろんそれだけではないのですが。)実は小田和正の影響で建築学科に進んで建築家になった人は意外と多いのではないかと密かに思っています。(みんなそんなことは口がさけても言わないと思いますが。)
その小田和正が、オフコースを解散し、ソロになってつけた会社の名前が、ファー・イースト・クラブです。なんだ、小田和正を好きな建築家がその会社名からパクったのか、と多分みんなそう思うと思います。もちろん決定的な要因はそうなのですが、それだけではないのです。
昔の新聞にはテレビ欄の下に必ずラジオ欄もあって、そこにはAM・FM・短波ラジオの他に「FEN」という不思議なラジオ局が載っていました。父に聞くと「Far East Network」という米軍向けのラジオ放送だということでした。日本語にすると「極東放送網」。なんかとても不思議な響きでずっと心に残っていたのです。ファーイースト。濁音がない、なんか素敵な響きでした。大学に入ってアトリエ系と呼ばれる設計事務所の形態があって、そこでは人数は少ないけれど、とても独創的な発想で建築を作り出す事務所のことなんだと知った時に、世界の東の果ての小さい設計事務所が作り出す建築が、世界のネットワークで発信されていくという意味で、ファーイーストという事務所名はいいな、と思っていたのです。小田和正の会社がファー・イースト・クラブになったと知った時には正直かなり驚きました。と同時に事務所名はファーイーストだな、とその時に思いました。それが、本当の理由です。
その名前の通りに、極東の小さい設計事務所が世界に何かを発信できる、そこまではまだ至っていませんが、そうなれるように日々精進。それを忘れないように頑張っていこうと思っています。
これから・・・
僕は今年で50歳。小田和正は今年で71歳。彼は今も日本の音楽シーンの中で最前線を走っています。僕らも負けないようにしないと。
このブログでは、オスコースや小田和正のことも積極的に書いていこうと思っています。それは今の僕の建築の設計の仕方とダイレクトにつながっています。それと同時に少し役に立つ話や建築・都市への提言も書いていこう、そう心に誓ったところで今日のブログは終了です。
※オフコースを知らない人のために。小田和正、鈴木康博の2人が中心となって結成されたバンド。大学時代にデビュー(その当時は3人や4人の時もあった)。その後、松尾一彦、清水仁、大間ジローを加え、82年には前人未到の武道館10日間連続コンサートを果たす。しかしそのコンサートを最後に鈴木康博は脱退。4人で再スタートするが、89年に解散。